インターネットと現実と

ユーザーモデル(ペルソナ)の胡散臭さ

2016.10.04

年齢、性別、日曜日はどんなことに時間を使っているか?食事にかけるお金はいくらか?車を利用するか?年収はいくらか?会社ではどんな立場か?

ユーザーモデルを設定するとき出て来る考え方だ。これまでこういう話を聞くたび、経験や価値が多様化する中でユーザーモデルを設定することにどのくらい意味があるのだろうか?と常々感じていた。類型化した個人を特定して、その人に向けて情報発信し態度変容を促すことなんてこの時代にできるのか?

類型化された人間像を想定しこれに最適化された情報発信を促すことが成功したとする。それはすなわち設定したパーソナリティを再生産する試みである。こんなことをインターネット時代の私たちはやりたかったんだろうか?(多様化する時代を、自分らしく生きたかったのではないか?)

もちろん、ある特定の文化背景や物語に基づくコミュニティや文化を創ることに私は賛成の立場をとる。価値とはそもそも取り合いだし、個人同士の価値はコンフリクトするから。人々にフィットする価値や物語を提供し共に創り上げていくことには肯定的だ。

だけど、ユーザーモデルに振り回されたいとは思わない。ユーザーがどのような生活を送っていて、趣味はどんなことで、病気をもっているか、どんな食事スタイルなのか、ほんとうにいるのかもしれないけど、想像の粋を出ないようなユーザーを設定することにどんな意味があるのか?

大切なのは、血の通った多様性を抱えた個人の声を聞くことだ。その人の体験に基づく今の言葉を引き出し、対象者と私の間で見つけ出せる「感動」や「気付き」を形にすることが大切だ。ここにこそ他の人が参与できる「一般性」を導きだす鍵があると自分は信じている。